武蔵とヒル魔は同い年で幼馴染みでお互いに忙しい両親ゆえに
いつもお互いの家を行き来して生活してきた間柄。
「うちで晩御飯食べていきなさい」
武蔵の母親の言葉は当たり前のもの。
そのうちに、何もなくても武蔵の家に入り浸る。
風呂も一緒。布団も一緒。武蔵の部屋で同じ天井を眺める夜。
眠るのがもったいなくて、ぎりぎりまで会話を続けて、いつも寝過ごしていた朝。
まだ柔らかな前髪をそよがせる聞き慣れた武蔵の寝息。
少しごつくなりかけた腕が遠慮なく飛んでくるのにも慣れた寝相。
夏休み。朝のラジオ体操、かっこんだ朝食、たまについていく建築の現場。
蝉がうるさい午後までできるだけ汗をかいたら午後からプール。
同じだけ外にいるのに、いつも肌が赤くなるのはヒル魔だけ。
ひりひりと痛みを訴える横で連れ回してごめんなと泣きそうになるムサシ。
いつのまにか、ムサシの母親が言うようになった「ヒル魔君は体が弱いから」
反抗するように乱暴な遊びも覚えた。
誰よりも高く木に登り、下を歩く大人達へたくさんの悪戯をくり返す。
大きな虫を捕まえると、虫専門のペットショップにムサシと二人で売りに行った。
思った以上の稼ぎになって、帰りに駄菓子屋で思う存分買い物をする。
何をするのも一緒、どこに行くのも一緒、
だけれどヒル魔の父が帰ってくれば、そんな「普通」が崩れてしまう。
どれだけ楽しい遊びをしていても、どれだけ夢中になっていても。
あの人が帰ってくれば、ヒル魔は全部を投げ出して行ってしまう。
長身の割にはがっしりとした身体。
男は頭じゃねえ、身体だ、腕っぷしだとくり返すムサシの父親も
ヒル魔の父には勝てないと笑う。
久しぶりに帰ってくる時、両手にたくさんの土産を差し出す。
これはムサシ君にと差し出された物は、高級そうな野球のグローブ。
とてもとても欲しかったけれど、どうしてだかあまり使わない内に物置きへ入ったきりだ。
あの人が帰ってくればムサシは部屋で一人で過ごす。
今ごろあいつは何をしているんだろうかと想像だけのつまらない生活。
遊びに行けば、ヒル魔はこちらを振り向きもしない。
ただ、机に向かいなにごとかに集中する背中に縋る。
膝に乗る。身体に巻き付き、見た事も無い程の甘えを見せる。
集中したいから、今は待ちなさいと言われればようやくヒル魔はこちらを向くけれど。
そんな時の会話はいつも同じだ。
あの人が買って来てくれたたくさんの玩具。
手入れの行き届いたたくさんのモデルガンや専門の雑誌。
英語だらけではあるけれど、憧れの選手が紹介されているたくさんの写真集。
それを一つ一つ見せてくれる。
今回の土産はどうだったか。昨日は父と一緒に何をしたのか。
滅多に無い程はしゃぐヒル魔を見るのはとても楽しい。
少し切ない。ほんのわずか、あの人が憎い。
子供の頃は、本当に良かった。
ヒル魔とあの人は滅多に一緒に過ごす事が無かったけれど、
その分とてもうまくいっていた。見ているこちらが嫉妬するほど。
月日は流れる。あの人がヒル魔の家にいる事が増えた。
一緒にいる時間が増えて、その分なぜか距離が開いた。
家に入らず玄関で泣いている姿を何度も見かけた。
泣き腫らした目のまま、夜中に窓を叩くヒル魔。
喧嘩したのかと聞いても何も答えずに布団に潜り込んできた夜。
ふさぎ込む事が増えた。楽しそうにあの人の話をする事が無くなった。
あんなに大好きだったモデルガンを手にする時、苦い物を嚼むような表情。
一体、何が起きているのか。ムサシにそれを知る術はない。
ただ、口数が減った。
ムサシの家に転がり込む回数が増えた。
いつのまにか、たいていの夕食はムサシと一緒が多くなった。
嬉しい反面、辛そうにうつむくヒル魔を見ていられない。
隣にいるのに。手を伸ばせば届く距離なのに。
笑わないヒル魔を見ているのはつらい。
ヒル魔はくり返す。
いつまでも、子供扱いしやがるんだと。
俺をまっすぐ見ようともしない。
何かあれば忙しいと言う。
何を言っても取り合わない。
わかったような上からの物言い。
悔し涙を浮かべながらそれを告げるヒル魔。
言葉の裏にある意味が、痛い程にムサシに届く。
もっと見て。
俺を見て。
側にいて。
俺をかまって。
話を聞いて。
嘘をつくな。
目をそらすな。
何かでごまかすな。
俺を、見て。
ただそれをくり返す、執拗な程くり返す。
こんなにも強く伝わるのに、あの人にはきっと届いていない。
俺が、言えばいいのだろうか。
もっとヒル魔に優しくすれと。
忙しくとも、ヒル魔の話も聞いてあげてと。
それを、俺が言えばいいのか。
ヒル魔は貴方が大好きなんだと。
俺が。
俺が?
ヒル魔のために?
時間だけが飛ぶように流れる。
小さな誤解と小さなひねりが大きく道を歪ませる。
解決の道はいくらでもあった。
諍いの種も、いくらでもあった。
何も出来ない俺が悪かったのか。
だけど。
でも。
だって。
できる訳が無い。
思い出すのはいつも楽しそうに笑うヒル魔。
あの人をいつも追い掛けていたヒル魔の横顔。
まだ帰って来ないのかと落ち着かずに待ち続けていたヒル魔の背中。
あの人が風呂に入ると、ヒル魔はそっと脱衣所に入り。
丁寧に脱ぎそろえられた服の上の腕時計を取りにいく。
一番きつく締めても腕から抜け落ちてしまうほど大きさの違う時計。
それを楽しそうに腕に巻き付けて遊ぶヒル魔。
今日は父さんが帰って来るからと慣れない手付きで台所を
ぱたぱたと走り回るヒル魔の指先。赤く滲んだ物を口に含んで、
止血する間も惜しんで鍋に集中する。
あんな視線を、一度も俺に向けた事は無い。
ヒル魔はただあなたを見つめているだけだ、と。
こんなに側にいる俺を見向きもしないで、と。
俺があいつを好きじゃ意味がないのだ、と。
それを、言えるだろうか。
言えば、ヒル魔は幸せだろうか。
あんな悲しそうな顔を見せる事もなくなるのだろうか。
そうして俺は相談さえしてもらえなくなるのだろうか。
ヒル魔が家を出ると言った。
一度言い出せば撤回しない、ヒル魔の言葉はいつも強い。
一人で暮らす、と告げる言葉はほんの少しだけ震えている。
遠くに行くのか、そう問いかければ
もうここには戻らないと言われた。
何もしない俺が悪かったのか。
だってそんなの嫌だったんだ。
俺を見てもいないヒル魔が。
俺にすがりもしないヒル魔が。
あの人を追い掛けるのを見るのが嫌だったんだ。
だけど。
こんな結末は望んでいない。
どうすればいい。
考えろ。滲みそうな涙を必死で堪えた。
こんなのは嫌だ。
ヒル魔がどこか遠くへ行く。
こんなのは嫌だ。こんなのは嘘だ。
最後まで俺を見ない。
一度も俺を、あんな目で見ない。
こんなのは嫌だ。
こんなのは嫌だ。
咽が乾いてひりひりと痛い。
言いたい言葉が何も出せない。
どうすればいい、どうすれば良かった。
だって、全部嫌だったんだ。
俺を見ないお前。
あの人ばかりを見ているお前。
あの人が好きと告げるばかりのお前。
俺を好きだとも思わないお前。
だけど、こんなのは嫌だ。
こんなのは嫌だ。
2006年01月07日(土) AM3:33
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