武蔵が風邪をひいた。
部室の改装が始まる前に、最後の確認をしようと武蔵の携帯を鳴らすが呼び出し音が鳴るばかり。用がある時に限ってこれだと舌打ちして工務店に出向いたヒル魔は、長椅子で動けなくなっている武蔵を発見した。
職人達は帰った後なのだろう、綺麗に整とんされた机と工具箱。閑散とした事務所には誰かが戻ってくるような痕跡がない。お袋さんはきっと病院にいるんだろう。
声をかけても起き上がらない武蔵の肩をゆすると、手のひらが熱い。
誰もいない事務所の真ん中で、ヒル魔は大きくため息をついた。
武蔵が目を開けると、見慣れた天井が遠くに揺れた。
朝から体調が悪い中、気力でどうにか保っていたが。
仕事が終わり、事務所に戻り、病院へ行くからあんたは適当に御飯食べてねと言う母の言葉を聞き流した所から記憶が無い。
ここで寝入ればかなりまずい、まずいと思ったまま事務所の長椅子で寝たのだと思っていた。
首を回せばそこは確かに自室のベットで、視界の隅に誰かが動く。
「…………」
声を出そうと開いた咽がざらつき痛む。布団の中は熱がこもり、毛布やシャツにべたべたとする汗を感じた。視界が揺れるのは熱のせいなんだろうか。
頭が痛い。身体が重い。シャツが貼り付いて気持ち悪い。
誰かいるんなら、どうにかしてくれと再度開いた口の中に、勢い良くペットボトルがつきこまれる。
「ぶっ……、っっ!」
とたんにむせて、酷く咳き込む。勢い良く咽から息を吐き出して、ようやく自分が乾いていた事を知った。飲みきれずにこぼした水を舌で嘗め取る。がさがさの唇が舌に刺さり、もっと欲しいと首を回した。
液体が咽を通る感触が気持ち良く、水とは違った甘味が心地よい。
少し何かの味がついたそれはいつもなら甘くて飲めない種類の物だろうが、疲れた身体は逆にそれが有り難い。
もういい、と顔を動かすとペットボトルが素直に下がる。
一体誰が、と顔を上げた先でここにいるはずもない金の髪が目の前で揺れた。
「何やってんだ」
呆れたような台詞は、むしろ武蔵が言いたい台詞のはずだ。
お前が、ここで何をやっている。文句を言おうと開いた口に今度はドリンク剤らしき瓶の口が押し込められた。
「体調管理も出来ねえのかよ」
薬臭いものが咽を通る。これって飯喰わないとだめなんじゃないのかと疑問には思ったが考えただけで胃が重くなる。とても何かが口に入る気がしない。
「熱、はかっとけ」
間をおかず、次に差し込まれた物は温度計。ブラスチックと金属の細い先端は口の中の温度ですぐに温く熱を持ち、その口当たりの悪さに武蔵は眉をしかめて唸った。
煙草が、吸いてえ。
仕事の最中には吸える時間が限られている。家に帰って時間がたっている事を思えば、習慣になったあれを随分長く口にしていない。とたんに無性に口元が寂しくなった。
細い温度計が余計に煙草の感触を蘇らせる。フィルターを噛み締める癖のある武蔵は口の中のそれへいつものように歯をたてかけて、慌てて口から吐き出した。噛み砕いては洒落にもならない。
「何してんだ、糞爺」
再びヒル魔が口に押し込む。武蔵は歯を立てないように唇だけでなんとか支え、できるだけそれに触れないように注意を払った。そんな状態で正しく熱がはかれるはずもなく。
武蔵の口から引き出して表示を見たヒル魔はあからさまに眉をしかめた。
「何だこりゃ。平熱ってどういう事だよ」
壊れてるんじゃねえかと悪態をついたあとに、ひやりと冷たいものが額を覆った。
ヒル魔の細い指だとわかり、大人しく武蔵は目を閉じる。細く長い指が額を覆い、ほてった熱を吸い上げて行く。
「熱、あんじゃねえか」
汗をかいて、気持ちが悪い。着替えをしたいし身体をふきたい、せめて何かを腹に入れたい。
こんな時は桃缶だろ。子供の頃、そういやあれが欲しくて熱が出ると嬉しかったもんだ。
気が効かねエ、と武蔵は思い、思った後に相手がヒル魔だと改めて実感した。
ベット脇にいるヒル魔の顔は蛍光灯を背負って暗い。
心配しているのか、呆れているのか、見下ろすヒル魔はこんなに近いのに表情がわからない。
目が覚めてから武蔵は一言も声を出していないのに、不思議と会話は成立している。
病人の看病などほとんど経験がないのだろう、少しかがんでこちらの様子を伺うヒル魔の表情は見なれない物を観察しているようにも見てとれる。
こいつに看病が出来るとは思わなかった。
さっき飲んだ飲料など、普段のヒル魔ならば絶対に買わない種類のはずだ。
わざわざ自分のためにあれをコンビニへ買いに行ったかと思えばとてもおかしく、笑おうとして咽がむせた。
「水でも飲むか」
視界の端にペットボトルが揺らされる。いらないと首を振ればそうか、とそれは下げられる。
ヒル魔の態度に文句はあるが、眠りにつく前に比べれば気分は大分良くなった。
重い身体を工務店からこの離れまで運んでくれた面倒さなどを考えれば、そもそも文句を言える立場ではない。
ドリンク剤のせいなのか、少し眠気が襲ってくる。
眠る前に煙草が欲しい。もちろんこの状況でそれが吸えないとわかってはいても。
未練がましく口を動かせばそれをヒル魔がめざとく勘付く。
「なんか、欲しいもんあんのか」
声が出ないために武蔵は大きく口を動かした。
た・ば・こ
数度くり返すと意図が通じたらしい。
「馬鹿じゃねえのか」
そうは言っても、欲しい物は欲しい。
定期的に何かを口に運ぶという習慣は、そう簡単には忘れられない。
煙草自体が好きな訳じゃ無い。落ち着かない時、集中する時、ぽかりとあいた時間を持て余す時。
口寂しいと感じる時に。
煙草をくわえると不思議に気分が落ち着いた。
無償に不安と後悔だらけだったあの時から始めた、悪い習慣。分かっている。
それは単なる逃避でしかない。
く・ち・が・さ・み・し・い
今度は一度で伝わったらしい。ヒル魔が小さく頷くのが見えた。
言ってみただけだ。薬も飲んだ。水も飲めた。あとは眠れば回復するだろう。
目をとじた武蔵の顔に突然何かが押し付けられた。
どうやらそれはタオルらしい。
額だけでなく、武蔵の鼻までを覆うように放り投げられたそれは絞ったのかと聞きたくなる程濡れている。タオルが含み切れない水が目尻から枕へぽたぽたと落ちるのが分かった。
あまり細かい事にこだわらない武蔵もさすがにこれはないだろう、と口を開きかけ。
唇のすぐそばに。
柔らかな息を感じて息を飲む。
覆いかぶさるように押し当てられる柔らかな質感。
同時に、胸から上に重く乗りかかるヒル魔の上体。
開きかけた薄い隙間からヒル魔の舌が潜り込んでくる。
「んっ…………」
武蔵の口の中はいつも以上に熱で熱い。
絡んで来るヒル魔の舌から、武蔵は普段と違う温度差を味わった。
少し腫れたような気がする口内へ、ヒル魔はためらう事なく深く舌を差し込んでくる。
絡んだ場所からくち、と湿った音が漏れる。
温度差がだんだんと小さくなって。
互いの熱を奪い合うように何度も角度を変えて重なる口付け。
風邪がうつるのが恐い武蔵の気持ちも知らず、濃厚な口付けは中々終わらない。
ヒル魔にのしかかられたこの体勢では、武蔵は逃げる事さえ許されない。
おしのけようとする両腕は布団の中。
もう、いい、との意味をこめて武蔵は顔を小さく振った。
息苦しさも感じて、武蔵は何度か頭を振った。
のしかかっていたヒル魔の重さが突然消える。
「風邪なんざ、さっさと直せ。てめえらしくもねぇ……」
ずれかけた顔のタオルの端からヒル魔の顔を覗きたかった。
今、どんな顔をしているんだろう。この不器用な男は。
言葉がそれきり途切れても、立ち去る気配は感じられない。
無言で自分を見下ろすヒル魔は
今、どんな顔をしているのだろう。
見たい、見たいと思いながらも。
ずれたタオルを動かす前に気配が消えた。
チームを離れてもうすぐ一年と半年。
ヒル魔の顔を正面から見る事が出来なくなって一年と半年。
こんな卑屈な態度になるは、きっと熱のせいなのだと。
武蔵は強引に自分を騙した。
|
|