熱い。
空港から外に出て武蔵はまずそれを強く感じた。
初めて立つ異国の空気はまず肌に刺さり、風に知らない何かの匂いを感じた。
東京の夏ぐらいの気温だろうか。暑いのにからりとした空気がどこか不思議な感覚だった。
真冬の1月。日本では一番の寒波が襲うようなこの季節。
「今は乾期の真っ最中で、涼しいから過ごしやすい」
送られて来た手紙にあった説明は本当なのかと疑いたいほど気温は高い。
頂点でぎらつく太陽の熱は肌をちりちりとあぶっている。
日焼止めなんて持って来てねえぞと武蔵は小さく呟いた。
ぎんぎんに冷房が効いた空港と外での熱気の差は激しい。
とにかく一刻も早く目的地につきたくて、タクシー乗り場でドライバーにメモを渡した。
チケットに添えられていたのは短い手紙と、一枚の地図。
差出人の名前さえないその手紙は、直感で差出人を知らせるものがあった。
汚い文字も、用件だけしか残さない文面も、あの頃を思い出させてくれる。
毎日顔をあわせる事が当たり前だった学生時代も、終わってしまえば疎遠になる。
それを一番良くわかっていたからなのだろうか、卒業してまもなく、ヒル魔が日本にはもういないという噂を聞いた。
あいつらしいと思うよりまず、驚いた。自分にさえも黙ったままで。
どこかに行くなど信じられない。
それが傲慢な思い込みだと言う事を突き付けられたようでいたたまれなかった。
あれから、5年。
武蔵の所には連絡があるのじゃないかと、泥門のメンバーが時折様子を伺いに来る。
それに対して何もないと返事をする事が、いつも辛い。
結局はヒル魔にとって、自分という存在がその程度だと自分の口から暴露するに等しい事だ。
暑い。
東京の夏にくらべれば大した暑さじゃないだろうが。
冬になれてしまった身体にはかなりきつい気温の変化だ。
ドライバー達は、見せたメモに首を振る。
指を指し、首を振り、ここにはいけないと身ぶりで伝える。
そこに浮んだ表情は見覚えがある。
ヒル魔に係わりそこに恐れを感じる者、特有の顔つきだった。
あいつ、こんな所でもまたつまんねえ事やってんのか。
苛つくのは暑いせいだと思いたかった。
右も左も分からない、異国の土地にいる理由。
5年。5年だ。
音信不通の期間は短いと言えるものではない。
その間、無言で放置され、まだヒル魔に振り回される自分を思えば腹立たしい。
腹が立つのは暑いからだ。
現地の地理に詳しいらしい男達は、首を左右に振っては他の者にメモを渡す。
7人目の男が首を振り、次の男は武蔵に指を立てて見せた。
「サウザン」
意味もわからず武蔵は眉をしかめた。英語でわかる単語はとても少ない。
地図に示された場所に行けばなんとかなると思っていたが、それは甘すぎる物だったらしい。
空港で現地の金額に両替えし、物価の安さに驚いた。
男が提示したものが金額というのなら、それは日本のタクシー料金に近いような気がするから。
きっとぼられているんだろう。
武蔵はため息をつく。連れていってくれるというだけまだましだ。
何か条件らしい物を口にしていたが、それを判断する方法は分からない。
それでいい、と言う意味をこめてうなずくと汚い車を指さされた。
とりあえず、これで。
あいつに会える。
長時間同じ姿勢を強いられる機内の狭さに疲れた身体は、ホコリ臭い座席でさえも心地よかった。
身体を伸ばし、ぬるいクーラーの風を感じながら流れる景色に目を向けた。
温室の中でしか見ないような植物の数々。鼻に感じるのは、そのうちのどれかの花の臭い。
色とりどりの鮮やかな花が濃い緑の中にぽつぽつと顔を覗かせる。
あらためてここが南国なのだと思いつつ、短い休息に武蔵は疲れた身体を休ませた。
少しうとうととしたらしい。車が止まった所で顔をあげると、運転手がこちらに手を伸ばしていた。
金を払い、車を降り、その風景に武蔵は顔をしかめた。建物らしい物がない。人影もなく、家並みも遠い。
海までも距離があるようで、思ったよりもうっそうと茂る木々の向こうに海岸線がちらちらと見える。
海岸よりすこし内側に入ったらしいこの場所は、地面が隆起している癖に見通しが悪い。
茂った木々が邪魔をする。本当によく、茂っている。
ここがメモにあった場所なのかそれとも騙されたのか。
判断する事も出来ず、人に聞くために遠目に見える漁村らしい所まで歩くのかと思うとため息も出ない。
緑のにおいがきつく香る。
首にかけたタオルで汗を拭い、自分のうかつさは棚にあげた。
どうするかなと考えた所で草むらからその少年は顔を出した。
日によく灼けた顔。短く刈りそろえられた髪はところどころはげが出来ている。
どこで作ったのか、頬には大きな擦り傷。ランニングシャツと短パンから覗く肌はどこも見事な褐色。
興味深そうにこちらを見上げる顔に笑ってやる余裕など無い。
追い払おうかと考えて、こいつでも場所がわかるかと考え直す、その合間に飛び込んで来たのは日本語。
「あんた、観光客かよ?」
たどたどしくもはっきりとそうしゃべる言葉に武蔵は思わず頷いた。
「ここに来たって事は、「ヒル魔」かい?」
あっさりと出て来たその名前に武蔵は声もなく子供を見つめた。
「こんな所で車を降りるヤツはたいていそういうヤツばっかりだ」
動揺を読み取ったように子供が笑う。ついて来るように手で合図され、草の中の細い道へと導かれる。
これでようやく、と思った武蔵の安堵は名前を聞かれて答えた瞬間に霧散した。
「む……さし?」
振り向いた子供の顔が不機嫌そうに歪んでいる。
「帰れよ」
何が悪かったのか、理解も出来ない内に武蔵は子供に突き飛ばされた。
「何しに来たんだ!今さらっ……」
「今さらって、何だ」
「帰れよ!ヒル魔はもうここにゃいねえよ!」
「なんだってんだ……痛ぇ!」
臑を蹴られ、怯んだ所を強引に押し戻される。
なんだって俺がこんな目にあわなくちゃならねえんだ。
「ヒル魔はここにいねえよ!」
「嘘つけ」
「あの人は……し、死んだんんだよ!」
子供が見え見えの嘘を言っているのは分かるが。
「あの人」という言葉に馴れ馴れしさが透けて見え、それが一度は収まった不快が逆なでされていく。
「帰れ……よ!」
弱々しいながらも身体全体で押し返そうとする子供を、武蔵はなんなく突き飛ばした。
この奥にあいつがいる。それだけで道案内は十分だ。
5年。
音沙汰がなくなり、その間何も伝えて来なかった、あの男。
5年も。
胸に溜まる文句は一つや二つどころじゃない。
たった一枚の手紙一つで。
説明もなしに呼びつけて。
呼び出されて。
のこのことやって来て。
俺は。
あいつに会えば何を言えばいいんだろう。
そう考える思考が止まった。子供を押しやる手に力も入らなくなる。
「よお」
木々の間、道の先、どこか開けた所に出るらしい細い空間を塞いでいる人陰。
光を背にしつつもすぐに誰なのかが分かる特徴のあるシルエット。
「何してんだ」
こっちの台詞だ、と言いかけて言葉も止まる。
風が吹き、今まで感じなかった潮の臭いを強く感じた。
弱いそれに揺れる髪先は、記憶のものより更に色が抜けている。
光の加減のせいなのだろうか。
異国の土地の、強く主張する色彩のせいなのか。
ぱさぱさと風にそよいだ髪は白に近い淡い金。
半袖のシャツが風をはらんで軽く膨らみ、その布の具合に相変わらずの細さが強調されていた。
あの白かった腕が、頬が、薄く茶を帯びているのが嘘の様だ。
細く尖っていただけの顎と頬は、柔らかさよりも肉による張りを主張していた。
顔をあわせる事のない5年の月日。
「てめえは相変わらず爺臭ぇな」
この再会を楽しんでいるらしいヒル魔の両目が少し細まる。
懐かしいなどと、思っているのか。
何も言わずに誰の前からも見事に消えた、こいつが。
言いたい事はたくさんあった。
それは全て口に登らず腹に溜まる。
一つでも言葉にすればヒル魔は笑うだろう。それは全部武蔵のエゴなのだ、と。
知ったような口でからかうだろうか。呆れるだろうか。
あの時。お互いの関係も家の事情も何もかも深く濃く、切羽詰まったあの学生の頃。
1年半、ただ自分を待っていた男に。
5年もどこで何をしてた、と問えばこいつは笑うだろう。
「離してやれ、ゲン。そいつは俺が呼んだんだ」
武蔵につきまとっていた子供はその一言で力を緩める。
聞き慣れたその名前に武蔵はヒル魔へ目線を向けた。
「俺がつけた。てめえに似てるからな」
『似てねえよ!』
言葉が重なり、武蔵は黙った。
ヒル魔には見えない角度で再度臑を蹴り飛ばされる。
「5年ぶりで、立ち話てのもナンだろ。」
促されて、武蔵はヒル魔の後をたどった。
海の臭いが強くなる。
視界が開けた所に海が広がる。
突然現れた海と空の二つの青の間でヒル魔が指差す所に、家があった。
バンガローともコテージともとれるそこに向い歩くヒル魔の背中を眺めるうちに。
会えたという実感が今さらのように襲って来た。
5年。
お前に言いたいたくさんの言葉。
1人にされて、自分のエゴがむき出しになった、長い長い、長かった時間。
会いたかった。
それだけは、伝えたい。
それを言うために。俺はきっとここに来た。
会いたかった。
それを、言うために。
俺はお前に会いに来たんだ。
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