人間から血を吸う為には、いくつかの問題点をクリアしなくてはならない。
健康であること(病気を移されては最悪だ)
タフである事(血を吸うぐらいで死なれては困る)
信仰心を持たない事(人間の持つ強い信念は形ある物より厄介だ)
そして何より、馬鹿である事。
人間は脆く、弱く、ゴミになるほど数が多い。
だから違和感を敏感に嗅ぎつける。
自分達と「違う存在」を潔癖なまでにはじき出し。
結束を高め恐怖を避ける。
トラブルは避けなければならない。
多くの人間に手をつければ危険も増える。
理想なのは一つに村に一人きり。
そのために獲物はいつも慎重に選ぶ。
意思の力で餌の意識はねじ伏せられる。手に入れる事はとても簡単。
この村で最初に目を引いたのは畑から飛び出た奇妙な髪型。
とうきび畑の間をひょこひょこと揺れる茶色のそれがヒル魔の心を引き付けた。
名前は武蔵。
村はずれの小さな家で一人暮らしの健康な成人男性。
条件は見事にあてはまっている。獲物にはうってつけだった。
うってつけの、はずだった。
【吸血鬼蛭魔&農民武蔵】
一ヶ月に一度、人目を忍び、闇に紛れて武蔵の元へやってくるその男は人間という括りから大きく外れた存在だった。
労働を知らないだろう細い身体。
土をいじった事も無いような細い指。
全身を覆うのは闇が染めあげたような黒一色。
土や泥にまみれる生活が似合わない、貴族のような男は武蔵に「ヒル魔」と名乗った。
最初になんと声をかけられたのかも忘れた。
何が切っ掛けでこんな事になったのかも、武蔵は何も覚えていない。
気がついたときにはベットの上にあおむけに転がり、板張りの天井の代わりにそこにヒル魔の顔が浮んでいた。窓を背にしてヒル魔の姿は闇に溶け込む。釣り上がった口元から除く白い牙だけがはっきりと黒い視界に浮かび上がった。
ゆっくりと近付いてくるそれに恐怖を感じる事は無かった。
それが、最初の夜。
覚えているのはそれだけ。
夜空に月が消える夜、決まってヒル魔は現れた。
俺の目を見ろ、と言われれば頭は考える事を止めてしまう。
視界の端に消えたヒル魔の白い牙が何をしようとしているのか。
生暖かな息が首にかかって、薄い唇が押し当てられて。
それが何を意味しているのか。
逢瀬を重ねる程に妙な拘束力は消えた。
忌々しそうに舌打ちする音で、今まで感じていた奇妙な硬直感がヒル魔にもたらされた物だと確信できた。
首筋にずぶりと潜り込む細い牙。
そこから流れる体液を逃すまいとする舌の動き。
不思議と痛みだけは感じない身体。
肌を這う唇から漏れる荒い息。
吸い上げた物を飲み干す咽が上下する気配。
おおいかぶさるヒル魔の重さは感じない。
触れている場所はどこも雪のように冷えきっている。
寝転んだ武蔵に顔を埋めたヒル魔は、満足した所で顔をあげる。
事に慣れた武蔵は、それをただぼんやりと眺める事しか出来なかった。
心地良さそうに身体を椅子にうずめ、しばらく身体を休めてからヒル魔は無言でその場を立ち去る。
一度、全てが終わった後に声をかけた事があった。
ぴくりとも動かない様子が、いつもと少し違った気がしたからだ。
ヒル魔はびくりと身体を跳ね上げ、声も出さずに部屋から消えた。
驚かせてしまったのだなと反省してからは静かにするように、心掛けた。
いつのまにか、ヒル魔が来る夜がわかるようになり、それが待ち遠しくなってきた。
言葉も交わさない無味なわずかな逢瀬ではあったがそれでも武蔵は楽しかった。
「お前、馬鹿か?」
武蔵の上からヒル魔が椅子へと移動して、いつもの沈黙がそんな言葉で破られる。
「何考えてんだ」
「何って……」
言われている言葉の意味が分からず武蔵は困った。
ヒル魔の声を聞くのは久しぶりだ。初めて会った時には確かに会話をしたはずなのにその内容が思い出せない。
ずっと声を聞きたいと思っていた。
せっかく聞けた声は想像していたどれとも違って少し掠れて少し高い。
何か、返事をしなくてはと思う程に言葉は出ない。
「お前に俺の“縛り”がかからなくなってるのは、とっくに知ってる」
だらりと脱力していたヒル魔の脚が見愡れる動きで組み直された。
「逃げる事も、誰かを呼んで待ち伏せする事だって出来たはずだ。なんでやらなかった」
言われている事の意味がわからず武蔵は言葉が出せなかった。
怒っているのとも少し違う。
「なんで、毎月俺の“縛り”にかかった振りしてたんだ」
言われている事の意味がわからない。
「自分が、何されてるのかわかってるよな?」
苛ついたような口調に武蔵は困った。何をどう返せば良いのだろう。
「おまえ、馬鹿か」
最初は。何がなんだかわからなかった。
ヒル魔が夜中に急に訪ねて来た。だけれどその先の記憶がない。
朝起きればいつもより少し身体が重い。けれど他に何も変わった事は無い。
そのうちに、だんだんと記憶が残るようになる。
深夜にドアを叩く音。扉をあければヒル魔が立っていた。
目をあわせると、そこから記憶がぼんやりとぼやけた。
霞みがかかったように視界もぼやけて、その中でヒル魔の顔だけが浮かび上がった。
笑いながら近付いて来て、抱き締められて、意識が途切れる。
その腕の中は気持ちが良かった。
違和感も恐怖も不安もなかった。
記憶がだんだんと残るようになる。
近付いてくるヒル魔の顔。
肌に触れる直前に、恍惚としたように顔をゆがめ。
大きく開いて咽をめがける口の形は笑っていて。
肌にかかる息は次第に荒くなる。
飲み下そうとする唇が体液をすすってぴちゃりと音をたてる。
気持ちよさそうに、耳もとでつかれるため息。
何が起きているのかよりも、ヒル魔の動き一つ一つが気持ち良かった。
動きが鈍くなっている腕を必死で動かして、おおいかぶさるヒル魔を触ると腕の中でびくりと跳ねた。
首筋に押し当てている唇が大きく息を吐いた。
湿ったそれが気持ちが良かった。
自由にならない手を無理に動かすと、突然指が重くなる。
それでもヒル魔の身体に、触りたかった。
触るな、とヒル魔は言ったのかも知れない。言わなかったのかもしれない。
嫌がっている雰囲気があった。けれど、耳に届く甘い息はそれ以外の物を含んでいる。
記憶は残る、けれど身動きが取れない。
触りたい、けれどそれをヒル魔が許してくれない。
「何、考えてる?」
武蔵の沈黙に苛つく声。
何か言わなくちゃならないと考える武蔵は顔を上げた。
「お前は、拘束を解いても逃げようとしねえ。それは俺にとっては都合が良い。けどな」
床の上ばかりを眺めていたヒル魔がこちらへ顔を向ける。
まっすぐな視線は強く、重く、圧迫感を感じたものの、武蔵はそれを受け止めた。
「俺を油断させようって腹か?」
「違う!」
「お前がそんな事考えられる程賢いと思ってねえよ。ただな。お前が『これ』を嫌がらない訳はなんだ?」
ここで答えを間違えれば。ヒル魔は消えてしまうのだろうか。
武蔵は必死で言葉を探す。
「俺は……。あんたといるのが、嫌いじゃねえ」
言葉を選ぶ武蔵を促すように、ヒル魔は片眉を持ち上げた。
「あんたが人じゃねえのは分かる。けど、別に恐くもねえ」
ごとり、と音を立ててヒル魔が椅子から立ち上がる。
「あんたがいなくなるのは嫌だ」
「ヒル魔、だ」
ベットに腰掛けたままの武蔵の肩に腕を回しながら、そう囁く。
「俺が?恐く無い?」
嬉しそうに笑いながらヒル魔は武蔵の顔を覗き込んだ。
触れる程そばで笑う口元からは人とは違う、歯列が覗く。
「恐く、ねえ」
「じゃあ、何だ?」
ヒル魔の顔が首筋に沈んだ。
ついさっきまで舐められていた場所に、また息が落ちる。
牙が肌に食い込む衝撃はなかった。ただ、柔らかな唇が肌を辿る。
「どう、したい?」
言葉に出来ず、武蔵は腕の中の細い身体に手を伸ばした。
自由に動く腕。ヒル魔は逃げない。
恐る恐る背中をなぞり、応えるように耳もとに息をかけられ。
抱き締めるように両腕に力をこめる。
「それから?」
首に埋めるヒル魔の顔を武蔵は追った。
冷たい頬。笑っている目尻。
手のひらにあまりそうな小さな頭。
どうしたいんだと目で問いかけられて、武蔵は夢中でヒル魔へ唇を押し付けた。
小さく、笑うような。
ヒル魔の息が漏れて途切れた。
人間から血を吸う為には、いくつかの問題点をクリアしなくてはならない。
健康であること(病気を移されては最悪だ)
タフである事(血を吸うぐらいで死なれては困る)
信仰心を持たない事(人間の持つ強い信念は形ある物より厄介だ)
そして何より、馬鹿である事。
けれど、それも過ぎれば毒になる。
あまりに健康で、あまりにタフで、愚鈍であると。
ヒル魔の持つ能力が届かなくなり、制御を外れてしまうのだ。
武蔵という男はうってつけの素材だった。
無駄口が少ない。村との交流も多くは無い。
家が村はずれだという事も気に入った。
何より、体液の味が良い。
獲物の目を睨み、昏睡させる中で思う様に体液を吸い、痕跡を残さず立ち去るのが最良の手段。
眼力で、人の意識をねじ伏せる。魅了するのも、隷属させるのも、それはヒル魔にとっては容易い事だ。
けれど武蔵にはそれが効かない。
なのに武蔵は逃げようともしない。
慣れないたどたどしさで、身体をまさぐる武蔵の動きにヒル魔は咽の奥で笑って応えた。
たかが、人間風情が、俺を。
“縛り”が効かない特殊な、餌が。
人外に向って、「恐く無い」とは、面白い。
自分が言った言葉の意味をきっと武蔵はわかっていない。
面白い、とヒル魔は思った。
飽きる程長い年月を移動する、ほんの一時。
この馬鹿に、つきあってみよう。
自分が何を言ったのか。
何を欲しているというのか。
欲した後に、何が起きるのか。
ゆっくりつきあうのも一興。
手にした喜びに武蔵が顔をほころばせ。
それが、だんだんと変わって行く姿を想像して、ヒル魔は笑いながら身体をねじった。
つたない愛撫によがるふりをして。
無骨な指に悦ぶふりをして。
この馬鹿に、つきあってやろう。
背を反らして、喘ぎながらヒル魔は笑う。
長い年月の中、初めて出会った馬鹿な人間。
人外の存在を恐く無いと言ってのける男。
教えた名前を、くり返し呼ぶ暑苦しい男。
少しは楽しませてくれそうじゃないか?
ヒル魔はくり返す律動に身体を反らした。
生きる事にさえ飽くような、長い時間の中。
ヒル魔がはじめて「人」に興味を持った瞬間。
それが何を意味するのか。
この時の二人がそれを予期出来るはずもなかった。
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