ヒル魔の為になんとか夕食を作った後の武蔵はぐったりとソファーに沈んでいた。
麻酔が口内に残っているので食欲も無い。そんな武蔵が面白いのか、ヒル魔が始終ちらちらと伺っている。
「食ったら寝ろよ」
「お前、飯は?」
「いらね。下げとけよ」
今日は風呂も駄目だと言われている。やる事が無い時は寝るに限る、と武蔵は寝室へ早々に引き上げた。
「寝るのか?」
テーブルと流しの間を何度も往復して食器を運ぶ 小さな体が声だけで武蔵の背中を追いかけた。
パジャマに取り替えるのも面倒で、衣服を足下に脱ぎ散らかしながら布団の中に潜り込む。今日は疲れた。
顎と口中に残る嫌な違和感に眉をひそめて武蔵は1人ため息をつく。病院というのはただでさえ良い気分のしない場所だ。あと何回通院するのか、それを思うと気が滅入る。
面倒だ面倒だ、と思う武蔵の視界の端でバスタオルが揺れた。腹の上に申し訳程度にかけてあったその端に、ヒル魔が潜り込んで来ている。
「なんだ」
「寝る前のやつ、してねーだろ」
勝手にヒル魔が作った習慣。一日にいくつも設定されている儀式。ヒル魔の小さく薄い唇が、武蔵の荒れた唇に重ね合わされる決まり事。
「やめろ」
「なんで!!」
一度やる、と決めた事を遮られるとヒル魔は酷く機嫌を損ねる。意地でも我を通そうとするから普段は流すのが得策だったが、この時武蔵は妥協をしなかった。
クーラーの冷気が届かないこちらの部屋で、密着されるのは正直不快だ。それはヒル魔も同じはずだが子供特有の体温の高さから、それ程イヤでもないらしい。
「虫歯ってのはなあ。そうやってうつるもんなんだよ」
「…………嘘だ」
「ほんとだ。虫歯治るまでそれは禁止だ」
以前から、武蔵はヒル魔のこの奇妙な性癖をどうにかしてやりたかった。子供らしい一過性の熱中だろうと思ってはいるがあまりにしつこい。すぐに忘れてしまうだろうと思っていたそれは時間と共に回数を増した。好かれて悪い気はしない。それでも過度に押し付けられる愛情は転じて不安に変わりやすい。このままでいいのか。このままがいいのか。
いつか年を取れば離れていってしまうからと放っておいてもいいもんなのか。
「あんま、べたべたすんな。暑い」
「なんでそんな事言うんだよ……」
消え入りそうな声でヒル魔がうつむき、手元からするりと抜け出て行く。そう、これだ。手元にある殊に慣れたと思えばすり抜けていく喪失感。
うるさいヤツがいなくなった、ただそれだけと言い聞かせて武蔵は眠るために目を閉じた。がっかりする事は何もねぇんだ、と自分へ言い聞かせている事に苦笑する。ヒル魔に随分毒されている。良い徴候じゃあねぇなと、思う。
少しうとうととしていたのだろう、いつのまにか手の中にヒル魔の重みと温もりがあった。顔に触れる柔らかなものはヒル魔の指か、頬か。続いて唇に押し当てられる柔らかい感触。ふわりと、ハッカの様な匂い。歯を磨いてきたらしい。子供の浅知恵ってヤツだろう。
「やめろって言ったろ」
寝起きの声はとても低い。シルエットだけでぼんやりしていたヒル魔がだんだんと像を結ぶ。
「いーんだよ」
繰り返される柔らかい接触。懲りる気配も見せないヒル魔。
「おい、やめろ」
「虫歯なんて恐くねえよ」
「お前、なあ……」
「お前が怖がり過ぎなんだよ」
何か図星を付かれた気がして武蔵が二の句が継げない。
「虫歯ごとき、怖がってんじゃねえよ」
ヒル魔の乳歯はどれも酷い虫歯がある。まるで尖ったような小さな歯とそれらの治療の痛みを思うと武蔵は正直に恐いと思う。
「でも、なあ……」
「うるせえ!」
小さな指に、頬をつねられた。みょん、と音がしそうなほど引き伸ばされる。
「俺だって虫歯に我慢してんだ。てめぇだって我慢しろ!!」
「…………はい」
逆らえない、と武蔵は思った。結局この小さな悪魔に自分はとうていかなわないのだ。
お前にゃまける、と思った気持ちが顔に現れ口元が弛む。両手でそこをひっぱっていたヒル魔が手元の肉感の変化を知る。何笑ってんだよ、などとぶつぶつ文句を言いつつ、武蔵に体を寄せて眠る。寝室の扉が全開に開き、そこから冷気が忍び込んで来る。
そこまでしても、ヒル魔は最後に武蔵を蹴って布団を独占してしまう。寝相の悪いヒル魔はたいてい熟睡すると武蔵を蹴り出す。「暑い!」と文句を言いあせもを作り「てめえのせいだ!」とむくれもする。
しかたねえ。我慢するか。
諦める武蔵は尚もにやけた。
はたからどう見えていても、これが二人の「普通」の形だ。
2人だけの狭い空間。周りから見れば奇妙だらけの毎日が、彼等「日常」で括られる。
終わる事無く、続く生活。留まる事なく深まる生活。
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